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本日の話題~桜を見る会前夜祭費用補填問題~

本日の話題~桜を見る会前夜祭費用補填問題~

 

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こんばんは!

タイトルの通り桜を見る会の問題ですが、安倍氏の不起訴が決まりましたね。

(以下ソース、テレビ朝日ですみません・・・。

タイトルに明確に”不起訴”と表記したものがあまり見つからなかったもので・・・。)

news.tv-asahi.co.jp

まあ、そりゃそうだよな。というのが感想です。

仮に真実がなんであれ、安倍氏が「費用補填の事実を認識して隠ぺいしていた」ということを証明するのは簡単なことではありません。

ですから、初めから法的には無理筋なのです。

 

ただ、私としてはこれで安倍氏は晴れて潔白、と言い張るつもりはありません。

もちろん、責任を追及するつもりもありません。

法的な責任は問われないということが確定しましたが、それはすなわち真実を証明したことにはならないからです。

 

これは、今回の件で他の類似案件同様に明らかになったことは、

「もし仮に代議員が不正を認識していたとしても、秘書の独断と主張されれば不正の認識を証明するのは難しい」ということだと思います。

これは政治の場で、与野党問わず幾度となく繰り広げられている光景です。

 

news.yahoo.co.jp

こちらの記事(ちなみに同じような記事が無数にありますよね)では、今回の件を「安倍氏の嘘」と断定していますが、

実際は「嘘だとも本当だとも証明できない」というだけです。

確かに、記事を読む限り安倍氏へ疑念を持つ人間にとっては到底納得いかない結果となっているのでしょうが、

だからといって「嘘だ」と断定して文句を垂れていては何も解決しません。

この手の問題は、代議員個人への攻撃に終始するのではなく、

悪魔の証明という逃げ道をこのまま塞がなくてよいのか」という議論に行きつくべきなのです。

 

 

ところが、この抜け穴はいざ自分が”守る側”に回った時に、非常に使えるのですよね。

政党がどこだろうが、代議員であれば自身になにか火の粉が降りかかった時は迷わずこの逃げ道に逃げこむでしょう。

今回の件で野党の皆様は語義を強めて批判を繰り返していますが、

逆の立場なら必ず同じようにするだろうな・・・というのが透けて見えるあたり、本当にお笑い草といった感じなのです。

 

 

ですから、先ほどの記事では維新の会にも噛み付いていたようでしたけれど、

維新の会の言うように「政治家が逃げられないように明確な制度を設計する」という方向に議論を持っていくのが望ましいのだと思います。

「安倍先生の説明を信じている」というのは「信じる以外にできることがない」ということの揶揄であって、

今回のこと(あるいは過去にあった類似の事例)から教訓を得て、より透明性のある制度を作っていくことが政治家の仕事なのだと思います。

 

多くの代議員、もしくは右左問わず偏った信条をお持ちの方は、

「他人に厳しく、自分や身内に甘い」という特徴を持っていることは皆さんお分かりだろうと思いますが、

それはすべて”目先の自分の利益のため”や”好き嫌いといった感情”で動いているからに他ならないのですよね。

本当に「この国を良くしたい」と願うのであれば、今回の件をただの個人叩きに利用しようなどとは思わないはずです。

 

 

何事でもそうなのですが、個人の問題と制度の問題をごちゃごちゃに考えるのはいけません。

ただ、多くの人がそこの区別がついていないのが実際のところです。

 

「とある警察官」の起こした不祥事を警察全体の問題にすり替えて批判する。

転売屋問題で個人や企業叩きに終始する。

 

こういう姿勢では、国は良くなっていかないのです。

 

転売屋は法律に違反していません。

意見は様々ですが、結果として人々が幸せにならないなら法制度を整えるべきですし、

逆にむしろそれが正常な経済活動だとするならば、対策は個々人でやる以上のことはできません。

論点はそこであって、口汚く罵るだけではなんの解決にもなりません。

 

不祥事の警察官の多くは「異端」です。

どんな組織、どんな場所にも不正を働く輩というのは存在するのです。

それが発覚したということはむしろ制度がきちんと作用しているということでもあって、

明らかに制度として不祥事を起こしやすい欠陥がある場合を除いて個人の責任問題にすぎません。

それに限らず、些末な特殊事例を大問題にしたがために、規制や決まり事にがんじがらめにされて

生産性の低下やコストの増加、人材の流出を招く事態はそこかしこで起こっています。

これは国家にとって損失の側面の方が強いですね。

 

 

国家と言うのは制度や憲法、法律といったもので形作られていて、

それによって人の行動を規制し、または行動を促していくことで成り立つものです。

ですから、「法律に従った方が暮らしやすい」、「制度を守っていれば報われる」といった環境をいかに構築するかと言うのが、国家を運営するということの本質なのです。

それでもそこからはみ出して不正を行うというのなら、法に乗っ取って粛々と裁いていけばいいだけの話。

 

そして、国民主権の国家では、運営主体はひとりひとりの国民ですね。

ですから、我々は常にそういったことを意識して物事を考えるべきで、

「皆が個人の感情で誰かを批判して終わり」というのでは、国家の発展は望めません。

我が国の閉塞感の一つの原因であると思います。

 

 

「ストレス発散のはけ口を探している。」

「自分だけ得をしたい。他人の幸福は妬ましい。」

「嫌いな人のやることはなにからなにまで嫌い。(または好きな人は何があっても擁護する)」

「他人には多くを求め、自分は他人に何も与えない。」

「自分は嘘をつくが、他人の嘘は許せない。」

「他人の不正は叩くが、自分の利益のためには少しくらいの不正は見逃す。」

「私に反対する人、利益にならない人は全員敵。」

 

 

こんな人々が増えると、国家はうまく機能しません。

そしてそれは巡り巡ってその人々自身に不利益をもたらす、ということに気づかなければならないのです。

三権分立国民主権基本的人権

学生時代に試験勉強で学んだ記憶もあるかと思いますが、これらを”試験のため”ではなく、

根本から理解し『実践する』という人間を育てなければ国家に未来はないでしょう。

我が国の教育制度はその点あたりがそれほど重要視されておらず、

試験で良い点数を取ることばかりに主眼が置かれているように思います。

ですから、我々は自らここに気が付かなくてはいけないのです。

 

 

私は、代議員とは国民を映す鏡だと思っています。

国民のレベルが上がれば、代議員のレベルも自ずと上がります。

代議員、役人、経営者、投資家・・・そういったものを批判するのは簡単ですが、

「自らの目先の利益や不利益」のために感情的になっているだけなのではないか、常に自分に問い続けなければいけません。

 

社会を良くするために、『まず自分から』。

そう思える人が増えれば、国家は好転すると確信しています。

 

 

 

ですが、人間は主観的な生き物ですので、完全な客観に達することはできません。

自戒し、自己研磨することは大切ですが、限界がありますね。

ですから、賛否を問わず様々な意見に触れることはとても喜ばしいことです。

私は、そんな風に「より正しい答え」を求めて喧々諤々と議論をする機会があればいいなぁと常に考えていますが・・・

なかなか我が国にはそのような下地がなく難しいところです。

間違い、思い込みなど、気づいたことがあればご指摘いただけると嬉しく思います。